2015年2月21日土曜日

【イベント】絵本『からすのチーズ』出版記念・しむらまさと個展「鳥たちと」と「トーク」のこと

 私は、なんであれ、“書くべき”だということは受け入れられない。(ナディン・ゴーディマ「むかし、あるところに」)

 絵本『からすのチーズ』の出版を記念して、ということらしい──しむらまさと個展「鳥たちと」を開催します。…江古田のパン屋さん&ギャラリー「vieill」、祐天寺の「祐天寺カフェ」という、『からすのチーズ』の著者に縁のあるふたつの場所の、いわばご好意で、開催する運びとなりました。展示されるのは、しむらまさと君がこれまで描いてきた油絵を中心にした作品群です。描きはじめたころの作品から、最近の作品まで、そしてもしかしたら最新作も? という予定です。

 そこで、昨年末から念願(?)だった、しむらまさとインタビューもついでにやってしまおう! という計画をたてました。それが、3.21の「トーク」です。

 情報は『からすのチーズ』スペシャル・サイトの「News」にのせています。ここでは、その内容について少し書きましょう。


 ね? 見事に「鳥の絵」ばっかりでしょう? もちろん「鳥の絵」以外の作品もイロイロあるのですが、絵本『からすのチーズ』との関連もあり、またほんとうに彼の作品には「鳥の絵」が多いので、この機会に「鳥の絵」をまとめて展示してみるというのは、ただ漠然と作品展をやるより面白い気がしています。

 そして「トーク」ですが、もちろん、しむら君(なんて他人行儀な感じがむずがゆいので、普段呼んでいるとおり「まーちゃん」と呼ぼう)と話します。題して、「しむらまさとの世界」──と、おおきく出てみました。どうなるか…

 何度もお伝えしているとおり、彼は、知的障害、自閉症と呼ばれる障害のある青年です。本人によると「大人になりたくない」そうなので、「青年」と表現すると怒られるかな?(笑)

 ぼくは、彼とは、NPO法人風雷社中のスタッフとして、彼の「支援者」として出会いましたが、いまでは、いわば「家族ぐるみ」の付き合いになっています。そして、いまでもぼくは彼の「支援」をすることがあります(とはいえ、同時にぼくも彼に「支援」されている感触があります──そんな話も「トーク」で出来るかもしれませんね)。

 彼の家には、いろんな人がやってきます(ぼくもそのひとり)。彼に会いたくて来ているとも言えるし、彼の母に会いたくて来ている、とも言えそう。

 それくらい、彼の母は、おもしろい人です、慕っている人もたくさんいるようです(本人によると「ただのお母さん」らしいですが… だから尚更? いやみんなそうは思っていなかったりして…)。でも、いつもスポット・ライトを浴びているのは、まーちゃんだ。そりゃあ、彼は「障害者」だからねー、特別だよ、なんて意地悪(?)も言えるかもしれません。

 ただ、あの母がいるだけでは、彼のような人はできあがらないという気もする。それくらい、彼というひとりの人のなかには、たくさんの人の存在が感じられます。彼の絵からも、その「たくさんの(何ものか)の存在」が感じられるかもしれない。

 さて、ところで、そんなことを言っておきながら、ぼくはまーちゃんと、じっくりお互いの話をしたことがありません。彼と、だけではないかもしれませんね。普段つきあいのある多くの人と、じっくりお互いの話をするなんて機会はない気がする。たまに顔を合わせると、ついバカ話に花を咲かせてしまって、気づいたら、もう行かなきゃ、なんて。

 なので、一度、じっくり話してみたい。こちらからの一方的なリクエストではありますが… そこは、お願いして。ちなみに、「どんな話になるか」どころか、「どんなふうに話されるのか」すら自分にも予想がついていません。ぼくは、自分の「話す」という行為そのものを問い直さなければならなくなるかもしれない。でも、思い描くだけで、なんか、わくわくするな。

 で、何を聞くの? ってことですけれど、もちろん「絵の話」が中心です。まちがっても福祉サービスの話じゃないよ(笑)。「障害者」だから特別、と思って『からすのチーズ』をつくったのではないし、じつはもっと「障害福祉」からは離れた(と人からは思われるような)話もしたいんです。

 「絵の話」なので、今回は、自分だけでは心もとないと思って、ゲストをお呼びしています。

 『アフリカ』最新号に載っている「ことばのワークショップ」にも登場している「アトリエ」の先生で、「画家」の秋山豊之さん。
 美術にかんするプロフェッショナルで、かつ、ことばでのふかいコミニュケーションがとれる人──この人に来てほしい、と思って一番に声かけたのですが、こころよく引き受けてくださって、ありがとうございます。


 これはアトリエで子どもが描いた絵を写真に撮って勝手に拝借しました(ごめん&ありがとう)。よく描けてる(笑)。とりあえず「画家」と紹介しましたけど、じつはその肩書きをどうするか少し迷いました。絵を描いている人はみんな「画家」ですからね。人っていうのはもっと多面的で、奥行きのあるものなので、全員に言えるのですけど、秋山さんはとくになんと言えばいいかよくわからない(笑)。ご本人によると「ふつーの人かな。あれ? ふつーじゃないか? ま、画家でいいです」とのこと。

 まーちゃんと、秋山さんが出会う、という機会をつくれるだけでも、ぼくはわくわくしています。

 「障害者」の話からも、まーちゃんの生活圏内(ぼくにとっては仕事の現場である街)からも少しだけ離れ、どんな話ができるか、とっても楽しみにしています。で、これから準備をしますが、「何をどう訊くか」を考えるだけでも、自分にはとても大きな仕事になる気がして、あなたなら何をどう訊く? なんて話して回るかもしれません。(そんなぼくの話も)あたたかく聞いてやってください。

2015年2月18日水曜日

日常生活のなかに潜む「差別」にかんする、現実と、想像力

 差別をなくそうというのは難しい。空気をなくそうというのに近い。差別している人は自分が差別しているとは思っていない。それからたとえば「障害者」だの「健常者」だの「男」だの「女」だのと言ってる時点で差別しているわけなので、正確に言うと「不要な差別はなくそう」ということ。

 その不要なというのがまた難しい。差別している人は、自分が差別しているとは思ってないくせに、それが不要だとは思っていない。やっかいだ。

 なぁんて、昨日の昼ごろ、ぼそぼそ言っていたら、ある人から、なんて分かりやすい「やっかい」の説明! と言われた。

 差別するなと言う人が、言ってるそばからべつのことで人を差別していたりする(自分が差別しているとは思っていない)。人っておもしろい。人ってそういうおかしなところがあるもんなんだと思っておいたほうがよさそうです。純粋に差別をなくすのは難しい(不可能と言ってもいい)けれど、ただ、そのことを考えるうえで「差別」ということばに安住するのを止めることは割と簡単にできそう。意識さえすれば。

  *

 じつはいま、ナディン・ゴーディマの短編集(昨年、岩波から出ていた『ジャンプ』というタイトルの文庫本)に夢中で。
 ナディン・ゴーディマ──南アフリカの作家で。昨年亡くなっていたんですね、90歳、眠っていて亡くなったとか(まさに大往生!)。ぼくは『アフリカ』をはじめる直前に、彼女の『現代アフリカの文学』を読んで、いろいろ思うところがあって、心の隅っこにはいつもゴーディマがいましたけど、「小説」を読むのは今回がはじめて(ムリに読もうとしない人なんです、そのときが来るまで待つ!)。
 最近、曾野綾子さんが産経に書いた記事が話題(すごーく悪い意味で)になっていますけど、曾野さんが持ち出してきたアパルトヘイトにたいして、ゴーディマは批判的な立場をとりながら、ずっとその内側にいて(つまりアパルトヘイト制度下の南アフリカ国内にいつづけて)人びとの日常生活のなかに根付いている差別や偏見が、具体的にどのようなものか、書いた。また、短編集『ジャンプ』では、アパルトヘイトがとかれていくなかに起こった、人びとの動揺や混乱といったことがどうだったか、いろんな人たちをとおして見せてくれる。やっぱりこういう「人びとの現実」は、こういうスタイルの文章(──小説というか)でないと描き得ないかもしれないね…。と、つくづく感じられる素晴らしい作品集です。

 曾野綾子さんの記事については、南アフリカ在住の吉村峰子さんという方が詳細に書いてくれていて、インターネット上では話題になっています。参考までに、これ。感情の抑制をきかせて、現実をよく考察し、想像力を行き渡らせた、素晴らしい文章の見本のような文章です。参考までに、なんて偉そうに言いましたけど、ぜひご覧ください。

 ついでに、最近、はじめて見たナディン・ゴーディマの写真の数々、ほんとうに、うつくしい人というか。これは見た目の〈美人〉というだけじゃないです。こらえきれず、こぼれてしまう〈美人〉という感じ(そんなところで褒めすぎ?)。いや、ぼくの心のなかでは、ずっとうつくしい人でいましたけれどね。おばあちゃんになっても、いつまでも。


 そして、少しずつ、少しずつ彼女の書き残したものを読みながら、じわ、じわと自分のなかに力がわいてくるのを感じる。──『現代アフリカの文学』に書かれている「〈参加〉の文学」というのを、少し読み返して、見返してみていた。文学作品とは政治につかわれる道具であると言っているのではない。くり返し言うと、〈参加〉の文学、と言っている。(今日のところはここでブツッと切ります。つづきはまた後日。)

2015年2月11日水曜日

新しい地図

 何もないように見える場所も、ある人にとっては豊かな場所に見えるかもしれない。一つの中央ではなく、無数の中央へ向かうことによって、見慣れた場所が未知のフィールドに変化する。(石川直樹)

 今月は、こちらの「自由時間」のほうで、いろいろ書きます。『アフリカ』の最新号(第23号=2015年1月号)のことや、イベントの告知なども書きますので、見てネ。
 というわけで、字数制限を外して、書きたい放題やろうというわけ。
 べつにこうやって「ブログ」というかたちで「発信」しなくてもいいじゃないか、という声もあるかもしれないが、宣伝や告知などお伝えしたいことがあるし、でもお伝えしたいことだけをお伝えするというのは、自分にはけっこう難しくて、いろいろ書いて、その延長でお伝えするというのが自然なような気がして。

 ちょっとこんな話から。

 この社会は、どうやら、どんどん暗い時代に突き進んでいるようです。不況とか、貧しいとか、そんな悠長なことを言っていられない時代が、もう来ているみたい。
 先日、テロリストの捕虜になっていたふたりが人質になり(おそらく日本政府は彼らを見殺しにして、まぁ偶然生きて戻ったらラッキーくらいにしか思っていなくて、その結果…)むごいやり方で殺害されるという一連のニュースが流れました。
 ただ、そのことを、ここで、いろいろ書くのは、止めましょう。ぼくは新聞やテレビではなく(彼らは起こっている大事なことの多くを伝えてくれなくなっています、だから…)SNSを通して、複数の取材者や専門家がいろいろ調べて、教えてくれることを、眺めて、考えているだけです。
 ずっと眺めていて、言えそうなことは、日本政府はどうやら「戦争」へ向かって突き進んでいること(ただ、現代の「戦争」のかたちにはイロイロあるようですが)。
 太平洋戦争へ突き進んだころの日本が似たような状況にあり、身の丈を超えた「経済政策」が大きな闇を抱えていたということ、それは、ちょうどいまの状況に似ているというくらいのことも言えそうです。
 昨年、桑原甲子雄さんの写真展をみに行ったときに、太平洋戦争直前の、東京の街がえらい明るくて、いまと変わんないなー、と思ったのをふと思い出します。
 ぼくはテロリストもこわいけど、日本の首相(と彼を裏で動かしている人たち)もこわいです。自分の住んでいる国の首相(とお仲間たち)だから。そして彼らが発する「ことば」の、上っ面な感じ、中味のない感じは、ただ身近にもたくさん存在しているような気がして、それにも強い危機感をもっています。前々から、ずっともっていたことです。

 で、どうする? って言ったって、時代に翻弄されて生きていくしかなさそう。歌は世につれ、世は歌につれ、というけど、何を言ってるんだ、世は歌につれない、いつも歌が世につれ、なんだ、という話をよく山下達郎さんがしてらっしゃいますけど。ぼくは、光海と、彼がこれから出会う、たくさんの仲間たちが心配です。


 そういえば、石川直樹さんの写真展に行ってきました。横浜市民ギャラリーあざみ野で、22日まで、やっています。無料でみられます。タイトルは、「New Map」。新しい地図、です(写真は、限定部数で来場者に配布されている折り込み地図ふうのパンフレット)。インド、ポリネシア、北極、南極、富士山、エベレスト、そして日本周辺のたくさんの島々… 石川さんの写真の仕事の全体像(?)を眺められるような展示になっています。ぼくは、彼の発表する「ことば」には、ちょっと理屈っぽいような(人のこたぁ言えないか?)コマーシャルっぽいような部分も感じていますが、なにはともあれ「写真」を、大きなプリントでじっくり見たい。いい機会です。じっくり見ていると、政治と経済と、戦争に明け暮れている人びとが、バカバカしく、遠い世界のように思えてきます。そしてそれに巻き込まれる無数の人びとの、悲痛な空しさ… でも、ぼくがもっとも感心するのは、人も生き物で、死ぬときはいとも簡単に死んでしまうものなのだ、ということ。殺し、殺されなくても、自然のなかの極限の状況では、人は容易には生きていくことができない… ただ、ぼくも、あなたも、みーんな死ぬまで生きるしかないわけですけど… (唐突に感じるかもしれませんが)「地面」って、おおきなもんですね! 石川さんの写真をずっと見ていて、なんだか「地面」をつよく感じて。なぜか「地面」について考えたり、思いを馳せたりしています。