2014年4月13日日曜日

ある読者──小川国夫さんのこと

 結局、小説の作者が風景描写をしたり、人物描写をしたりする必要はないのです。全身これ耳となって、ただただ登場人物の声を聞けばいいのです。そのうちに、作者は登場人物と抱き合って、彼が感じるままに我も感じるようになるでしょう。(小川国夫「耳を澄ます」)

 4月は、個人的に、忘れることのできない命日がいくつかあります。ひとつは、2008年4月8日に亡くなった小川国夫さん。冒頭に引用したのは、ちょうど、ぼくが小川さんと毎月会っていたころに書かれた随筆から。「耳を澄ます」という短い文章は、あのころ、小川さんがぼくたち若い書き手、あるいは書こうとしている人たちに語っていたことの、総括のようになっています(いまは『夕波帖』という本の冒頭に収録)。引用したのは、最後少し前の部分なのですが、このまま最後まで書き写してしまいましょう。

 考えてみると、小説の作者とは聴覚です。それから、視覚です。五感だとするのが正確かもしれませんが、しかし、五感も便宜的な分けかたですから、感覚の総括とでも言うほうがいいかもしれません。ただいに色層がにじみ合った虹のような束とでも……。虹は光を映しているだけの無ですし、五感もそうです。こう思って、それならば、小説の作者は限りなく無になろうとしているのか、と考えます。目下考えています。

 小川さんは、小説の作者とは、聴こえてきた言葉を、右から左へ写しとるだけで、なにもつくる必要はない、でっちあげるとむしろよくない、ということをくり返し語っていました。ま、そんな思い出をふり返っているより、小川国夫の著作の数々を読み返すほうが良さそうです。


 以下は、命日に、ふと思い立って書いたものを、Facebookより転載します。

 気づいたら、今日は小川国夫さんの命日ですね。今年は、あまりにバタバタしていて、先ほどまで忘れていました。
 ぼくを小川国夫の「(最後の)弟子」と言われる方がいらっしゃいますけど、「自称(最後の)弟子」はたぁ〜くさんいらっしゃるでしょうし、ただ、ぼく自身にはそれをどうこうする(書いたりとか?)つもりがない。以前、ちょっとだけ書いちゃいましたけどね(それも「周辺のこと」という感じ)。もういいかな。自分の出合った小川国夫について、個人的に、という範疇を超えて書く気はしない。たとえば、再評価云々にも、あまり興味がない(新刊書店で買えない著作の割合が高すぎるけど、それは小川国夫に限った話ではないし)。
 ただね、昨年末、吉祥寺美術学院で、ヘミングウェイの研究者と一緒に話をして! と頼まれたときには、もちろんぼくの心のなかには小川国夫がやってきていたし(そして、そのまま、その話をしました)。たとえば、文章作法の話になると(小説の話なんかでは全然なくても!)、心の隅っこで小川国夫が笑って聞いていてくれる。それでじゅうぶん! あとのことは、ま、どうでもいいです。著作にかんして、ぼくはただの一読者です。
 亡くなった、と報を受けたあの日から、もう6年がたちました。


 誰がなんといおうが、この一冊。ぼくの、なんというか、人生の一冊です。出合いは、『アポロンの島』。鮮烈でした。いまでも、まったく劣化していない(本は読みすぎて弱っていますけど、内容はいつまでも新しい)、まぶしい、まぶしい一冊。

 数年前に気づいたんですが、ぼくが故郷・鹿児島を離れて大阪へはじめて行った1998年の2月に、この講談社文芸文庫で復刊されているんですね(こういう場合は復刊とは言わないか、久しぶりの文庫化だった)。だから、書店の文庫コーナーの新刊コーナーに平積みされていたか、目立つように置かれていたはずです。それで手にとった、と。ただそれだけだったんでしょうけど。まさか、そのあと、その作者本人と、あんな交流が生まれるとは思っていません。ぼくは本来、そういうのには、あまり興味がない人だし。でも、いまとなっては、小川国夫さんだけ別格です。ある意味、最初に見た親のようなもので。
 たまに、小川さんから「下窪くん、焦るなよ」と言われていた、その声を思い出します。はい。世界一のろい人から言われると、なんとなく説得力がある。と、相変わらずのへらず口を叩きながら…
 島尾敏雄さんが朝日新聞で『アポロンの島』を紹介して、脚光をあびるのは、小川さんが38歳のとき。ぼくはいま35歳なので、まだそこまで3年ありますね。なんの話やろーか。ぼくは脚光なんてあびたくないな。あびるとしたら何であびるんだろう。道草家のほうかな。やなこった。

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