もし本人の話を整理したり分析するのがカウンセリングなら、私たちがしているのはそれではありません。私たちがしているのは、ビフレンディング(befriending)です。相手との距離をとらずに「どうしたの?」と一歩前に出る。横並びなんですよ。近づいて一緒にいる。そんなかかわり方です。(西原由記子)
また2週間、空いてしまいました。いまは、なんだか、いま自分の感じたり、思ったり、考えたりしていることを、どんどん外へ出そうという気にならないようです。「発信したい」というか、「人に話したい」といったことよりも、「知りたい」「聞きたい」「読みたい」というほうが強くて。ま、以前からそうだったといえばそうだったのですが…
先週だったか、西原由記子さんが亡くなった、というニュースを目にしました。訃報記事によると、「国際ビフレンダーズ東京自殺防止センター創設者」。
ぼくは西原さんについて、全然詳しくはないのですが、2011年2月、震災の直前に、西村佳哲さんの『かかわり方のまなび方』を読んで、その冒頭に出てくる西原さんのインタビューが、心の底に刺さって、いまも刺さったままです。なんど読み返したかわかりません。
「人は応答する存在として生きている」というタイトル。
最初のページでは、「自殺防止」「自殺予防」の活動をはじめたきっかけとして、ある男の子の死があった、と話しています。「みなさんによろしく」が最後にかわしたことばで、その日、彼は逝ってしまったのだそうです。「よろしく」が「さよなら」だった… この本を読んだ少し後に、ぼくは自分も同じような体験をすることになるのですが…
あのとき電話口で自分は、ほんとうに薄っぺらな言葉しか捉えていなかった。
存在を一人で丸抱えするなんて出来ません。一〜二名が後ろで一緒に聴くんです。一人だとのめり込まざるを得なくて、共倒れしやすい。
どこに死にたい人がいますか。死にたくて死ぬ人はいません。追いつめられて、もうそれしか選べないと思って、えい! と死ぬことを選んでしまうんです。
本当にポツーンとした状態だと思う。
言葉にならないこともありますが、向こうが切らない限り、電話を通じてそばにいるだけで十分なんです。
いろいろ質問したくなる。でも質問したいのはいったい何かというと、知って自分が落ちつきたいだけ。そんなこと、この人には関係ない。
決心してらっしゃる人を、変えるわけにいかないですよ。受け入れざるを得ない。
言葉は生きていて、それを投げかけられると聴いている私の内面にもいろいろな感じが生まれる。生まれたその感じを一度受け入れて、言語化する作業を、できるだけ丁寧にしているんです。
正直じゃないと、本当の会話は出来ない。
その相手がいのちを絶って、次の瞬間からものを言わなくなってしまったら私は悲しい。これは本当のことですよ。
私には私の価値観がある。相手には相手の価値観がある。お互いがどれだけ認め合えるかというところからしか、何も始まりません。
人はひとりでポツンといるのではなくて、何かと応答する、そんな存在として生きているのだと思います。
勝手にたくさん引用してごめんなさい。でも、この対話の記録を前にして、ぼくはあんまりたくさん喋りたくない感じで。くり返しくり返し読んでいます。
ぼくは、ほんとうに「聴く」ということ、「受け入れる」ということ、それがほんとうにはどういうことだか、じつは自分にはわかっていない、という気持ちで、ずっといます。
それから、人間が「何かと応答する」存在、ということばは、ず〜っと遠くのほうで光っている、ひとつの道しるべのように感じています。
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