2014年2月5日水曜日

「迷惑」の応酬

 自分はへとへとになってからなお粘ることができます。(太宰治による何かの小説から)

 先週は更新を休んでしまいました。まぁ、休みたいときには、休めばええ、ってつもりでやってます。でも休んでしまったぶん、今週は2回分、書こうかな。


 先週の木曜、外出支援中に、こういうことがありました。以下は、TwitterとFacebookに載せたことの引用です。

 今日の外出支援中に、三軒茶屋のキャロットタワー展望台に寄ったら、利用者くんちょっとはしゃいで、座ってのんびりしようと促していたら、60代くらいの女性が近づいてきて「なに考えてるの?」と険しい顔で言っている。ぼくは「はぁ?」となって…
 その人は、彼(知的障害をもつ)を「連れてくる」こと自体が迷惑だとはっきり言った。おれもよくこらえた。同行の支援者がいて、助かったな。殴りかかりそうだった。クソババアが。
 昨年から、たびたび耳にしている「迷惑」ということば、よくまぁ軽々しく使えるね。意味わかってんのか。
「迷惑」と言ってるお前が唯一迷惑だよ、おれには。

 と、ちょっと強い口調で、まぁ、愚痴を書いたんですけど、思わぬ反響がいろいろありました。
 「障害」に取り組んでいる人のなかには、「こんなことはしょっちゅうあります」「日常茶飯事です」とおっしゃる方も少なくなくて… というかすごく多いようです。
 最近、少しお話する機会をもっている「プラス・ハンディキャップ」編集長の佐々木一成さんには、そうぼくが書いたことがきっかけで、記事まで書かせてしまいました。以下の記事です。

 「障害者=怖い、迷惑だ」と思うことってダメなの?「知らない」ことから生まれるリスク

 たしかに、ぼくが書いたその女性にたいして、多くの人は「最低だ!」という感想をもつかもしれません。
 でも、何が?

 その女性に、「障害」にかんする知識・情報が不足していたとして、そんなことは、そのときのぼくにはどうでもいいことです。
 こんなことを書いたら、ビックリされるかな? でも、はっきり言うけど、どうでもいいんです。普段からどうでもいいと思ってます(ただし、自分の知らないことが世の中にはたくさんあるという認識があるかないかは、かなり大きいと思っています)。
 その人の周囲にいる人たちが全員、我々のことを「はやくいなくなってくれたらいいのにな」と感じていたとしても、やっぱり、どうでもいい。
 我々は、それでも、そこに行きます。その場が存在して、行きたくなれば、行けたら、の話ですけどね。
 そこは公共の場です。個人宅ではもちろんないし、誰でも入って行ってよい場所です。体が不自由な人にも優しい工夫がいろいろしてあるから、「障害者」が来ることも想定してつくられている場です。彼は少しはしゃいでいたかもしれないが、そんなに大声をあげていたわけでもないし、そもそも声を出していけない場所ではない。実際、そのとき、目の前ではFM世田谷の公開放送が行われていて(杉真理さんが出演していた。ぼくは、お〜杉さんだぁ! ってそっちが気になったりして)、お喋りや音楽で賑やかな状況でした。
 もし「嫌な奴らが来たな」と思っても、ある程度常識のある大人であれば、「出て行け」とは言えないはずです。
 ぼくが言いたいのは、以上のことを見て、考える力が、その女性には圧倒的に欠けている、「この場にたいする認識が間違えてますよ。それを了承できないのであれば、そこにいていけないのは、あなたのほうですよ」ということです。「障害」にたいする理解なんか、関係ありません。
 ぼくはそこで言い返してもよかったのでしょうけど、利用者くんを連れていて、彼の傍を離れたくない。かたちだけ謝ったら去って行ってくれたので、そのままにしておきました。睨んではおいたけど。
 だから、佐々木さんの書いているように、その女性は「誠実」(というより「素直」かな? 佐々木さん、どう?)だったかもしれないですが、「大人」としては失格です。幼い子どもならいざ知らず。感じたことを、ことばにしただけ、ということなら、ますます最低です。ガキ。

 ぼくは、町のなかで、ふいに(いいですか? ふいに、ですよ。喧嘩になって、とかじゃない)、このように「迷惑だ!」と言われた経験を、ざっと思い出すだけで、数回しています。外出支援の利用者くんを連れていたときなんか、路上(歩道にいて)で言われたこともあります。

 ぼくは、「障害」にたいする理解なんか、求めてません。そんなもん理解しないでよろしい。その前に、「理解」って何? どういうこと? っていう共通認識がない。「障害」って何? というのもある。そんなことばで考えているうちは、共通認識がないのだから、歩み寄りたくても歩み寄ることのできるはずがない。

 その前に、お前ら、いいかげん大人になれよ、と言いたいだけです。

 佐々木さんはご自身が「身体障害者」なので、いまのところ「身体障害者」とは言えそうにないぼくには想像できない、いろんなことを考えられてるのだと思います、またゆっくり話してみたいと思いますが、一方で、そんな人たちの「社会」に「進出」したり、「受容」されてどうなるのかな? という不安のほうがぼくには大きいです。

 とはいえ、そんなのは一部の人なんですけどね、「一部」でもけっこう大きいからな、たまに困ります。ただ、悲しい出来事もありますけど、外出支援で、彼らと町に出ると、人はあたたかい、と思うことのほうがぼくは多いです。「共感」をもって、彼らを眺めてる。そのことは、『アフリカ』最新号の「「外出」という仕事」に書いたとおりです。具体的なことをいろいろ書いているので、ぜひ読んでください。

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