2013年11月28日木曜日

『ふうラボ』のこと、『技法以前』のこと

 「信じる」ということは、目に見える否定的な現実にもかかわらず、がっかりしたり心配しないという振る舞いを私たちにもたらすだろう。そのような「現場への立ち方」を教えてくれるだろう。(向谷地生良)

 11月も残り数日。今年は夏が暑すぎて、すごくなが〜い夏でしたが、そのぶん涼しくなってからは、文字通りあっという間に過ぎていく感じがします。いかがお過ごしでしょうか?

 NPO法人風雷社中での仕事をはじめて、1年2ヶ月ほどがたちました。それも、なんだか、あっという間、という気分です。知的障害、自閉症などの「障害」をもつ人たちの移動支援、外出支援などの「ガイドヘルパー」の仕事はもちろんですけど、今年になってから、『ふうらいラボⅡ』(通称『ふうラボ』)という広報紙の編集部も担当しています。ちょうど11月号(11月末発送号)が完成したところ。


 風雷社中の拠点は、大田区ですが、現在、HASUNUMA☆BASE(蓮沼)と、EBAKOU☆BASE(矢口渡)の2か所があり、HASUNUMA☆BASEではおもちゃ図書館の「じゃりかふぇ」があり、EBAKOU☆BASEでは、就職や社会参加(というのか何というのか)に難を抱える若い人たちの支援活動もやっていて、その2か所を中心に行われているイベントや、風雷社中のスタッフが発信しているインターネット・ラジオ「OpenSession」などの情報を、『ふうラボ』では編集して入れられるだけ入れています。
 そういう、「情報紙」の役割を果たす(果たせているカナ?)一方で、「観てない映画批評」を筆頭(横綱?)とする、どうでもよさそうな(?)記事もあり、そのへんは、この編集部(『アフリカ』と同じ人)ですからね… でもそれが面白いという人もおります。のです。

 フリーペーパーなので、大田区内で見つけた方はぜひお手にとって見てみてください。まだ置かれている箇所が少ないので、「置くよ!」という場所があれば、それも、ぜひ! 遠慮なくご連絡ください!(これも、「小さな本」ですヨ。)


 さて、昨夜のアトリエでも、たくさん話してきましたが、ぼくからの昨日の「お土産」は、べてるの家の記事(『BIG ISSUE』2011年1月1日号〜「特集:いま、当事者研究の時代」)でした。「治す」「治る」ということばについて、けっこうながい時間、話し合っていたような。べてるの家の、当事者、ソーシャルワーカー、精神科医たちのことばは、なんというか、まったく「表現者」のことばで、彼らの“順調に行き詰まっている”様子を読んでいると、不思議な力がわいてきます。


 冒頭の、向谷地さんのことばは、この本から。医学書院の「シリーズケアをひらく」の一冊で、『技法以前』という本。べてるにかんする本は、いまや、たくさん出て、まずはどれを、というのもないのですけど、ぼくは、これをよく手にとります。この本は、ぼくのかかわっている、あらゆる仕事に通じる何かを持っているように感じて、その感じは、日に日に増してきています。

2013年11月20日水曜日

元気になれる場所

 自分のありようを受け止め、そこで自分を肯定している人が、人にかかわるのは、ものすごく大事なことやと思う。(西田真哉)

 『アフリカ』の編集後記にも書きましたけど、昨年から、週1回、吉祥寺美術学院のアトリエで国語の授業を担当しています。
 そこでは、センター試験・国語の対策を、学生たちと一緒にやって、お給料をいただいているのですが、単に受験生のセンター試験対策というのにとどまらない、いろんな話をすることにしていて。ひろい意味で、「ことば」にかんする授業、あるいは、「ことば」にかんしてあれこれする場、と思っています。
 学生たちは、全員が芸大・美大入学を目指している20歳前後の若者たちで、彼らを見て話していると、当然ぼくは自分の10数年前を振り返りたい気にもなり、いろんなことを思い出して、あれもあった、これもあった、と、逆に忘れていた宝物をいろいろいただいて毎週帰ってきている。ような、気がします。

 先週は、「知っている」「知る」って、どういうことだろう? という語り合いの時間が少しありました。授業後に、だったけれど。


 今週、別のきっかけから、たまたまこの本を出してきて、めくっていたら、同じようなことを考えている箇所があって、今日の授業では、そこを少しだけ読む時間をつくろうかな、と考え中。この本『かかわり方のまなび方』は、著者の西村佳哲さんが、さまざまなワークショップや、プロジェクトのなかで出会ってきた、「ファシリテーションの世界を訪ね歩いた」「報告書」のような本。上の、西田真哉さんのことばは、この本から。


 先週は、ホックニーの画集の話もしたっけ。それでぼくは学生のころ夢中で読んだこの本を思い出して、帰宅してから、久しぶりに読んでみていました。「紙のプールで泳ぐ」という、ホックニーの画集について書いた短文を含む、いろいろな「本」にかんするエッセイ集。片岡義男さんの、作文のスタイルに、20歳前後のぼくはすごく影響を受けたんでした。この本を読むと、なんだか、励まされているようです。よし、また頑張ろう、という気になりました。よし、今日はこの本も持って行こう。(大丈夫です、センター試験対策の授業もしっかり進めてます。でも、まぁそういう勉強は学生ひとりひとりが進めていれば勝手に進むんですけどね。)


 先週末は、久しぶりに夫婦で、近くの根岸森林公園へ散歩に出かけました。これは、お気に入りの場所からの眺め。ことのはさんには、仲良しの木がいて、その木が立っている場所なんです。

 そこにいると、そこに行くと、元気になれる場所というのが、いろいろあるといいですね。ぼくには、どれくらいあるかなぁ。自分が元気になれる場所を拠点に、いま、ぼくは自分の仕事をできている気がしていて。これは、数年前まで、考えられないことでした。

2013年11月13日水曜日

1994年の秋と、2011年の秋のこと

 だれかが聴いたことのないレコードを持っていたら、決まってひっくり返してB面を聴いた。むろん、ぼくらにもうまくやれそうだと思えるような曲であることが絶対条件だ。(ポール・マッカートニー)

 一昨日の夕方、急なにわか雨、しかもかなり激しい雨におそわれて、止んだあと、急激に冷えこんだ。秋をすっとばして、もう冬ですね。11月もはやいもので中旬。いかがお過ごしでしょうか?

 上のポール・マッカートニー(いま久しぶりに来日ツアーを行なっている)のことばは、数日前に発売されて話題になっているザ・ビートルズ『On Air Live at the BBC Volume 2』から。


 1994年秋の『Live at the BBC』は、10代のぼくが夢中になって聴いた思い出深い1枚で、なにはともあれ、ぼくは「ラジオ」が好きだったんですね。しかも彼らが演奏している楽曲の大半は、彼ら自身のヒット曲ではなくて、1950年代半ばから当時(1960年代前半)にかけてのリズム&ブルース、ロックンロール、ポップスのさまざまな曲だったので、ものすごく新鮮でした。
 で、ポール・マッカートニーは、それらのレパートリーについて、ほかのバンドとの(いわゆる)差別化をはかるために、必死でレコード漁りをした、A面よりB面のほうがマニアックなので、むしろB面のほうに注目することが多かった、という話を書いている。ついでに、自分とジョン・レノンが自作曲を書きはじめたきっかけも「それならほかのバンドと同じになることがない」から、なんて。ポール・マッカートニーって人はやっぱりロマンティックな人ですネ(どこが? って訊かないで)。
 しかし、1994年にはなかった、現在のデジタル・マスタリングの技術は、やっぱり凄まじい。半世紀ほど前の、マルチトラックレコーダーもない、ラジオのモノラル録音が、えらい迫力で聴こえます。よく見たら(聴いたら)今回の再発、内容も微かに違うみたいですけど…


 さて、今日は11/13です。ちょうど2年前の今日、ぼくは初めて山手(駅でいうと、お隣の石川町駅ですけど)へ来て、ブラフ18番館で「サロン・コンサート」を聴いた。2年前の「道草のススメ」(もうすぐ閉じようと思ってますけど、まだ閉じてません)をみたら、こんなことを書いてる。その2ヶ月弱前の9/22、例の、Twitterでの「道草家を捕獲!」事件(?)があり、なにか磁石に吸い寄せられるように、あの秋の日、ぼくはこの横浜へ来たのでした(ちょうど「アフリカン・フェスタ」をやっていたんですね、行きませんでしたけど、笑)。
 その前日の11/12には、そのとき住んでいた 府中の部屋(があった建物)のお隣にオープンしたばかりの珈琲焙煎舎に初めて行き、そのときのことも「道草のススメ」に書いて、それを見つけた珈琲焙煎舎のふたりと親しくなり… という展開もありました。
 その後のぼくの運命(?)を決定づけるような出会いが、信じられないようなスピードで続々と起こったのでした。いまでも感謝しています。

 そして、そのときのぼくは、ネイチャリング・プロジェクトという団体が虎ノ門でやっていたNPO起業&経営塾といった場所に通っていた時期でした。まさか、そのあと、ほんとうにNPO法人のスタッフとして働くとは思っていなかったような…
 あのころ、語り合っていたことは何だったんだろうね? という話が、先日出たんですけど、いやいや、ぼくは少しずつ実現させてきてますよ。よ〜く見れば、わかる。まだまだ、これからやろうと思っていることもたくさんあります。
 最初のうちは妥協しておいて、あとで盛り返そうなんて考えは甘い。それでは、一生妥協しつづけることになってしまう。もちろん妥協できるポイントはたくさんあるけれど、大事なところでは絶対に妥協しない。と思っていました。その考えは、いまもまったく変わってない。いまでも、頻繁にわき出してくる「やっぱりできないよ」という声に、しぶとく「どうやればできるかなぁ。できる方法を考えよう」って問いかけてる。癖みたいになってきた。それは、ずっとつづきそうです。

2013年11月6日水曜日

「小さな歌」たち〜山下達郎「PERFORMANCE2013」

 足を踏み入れるとそこは、路地裏というか、都会の片隅のようなささやかな場所にみえる。歌が歌われ、楽器が奏でられ、そして音楽が生まれる。大袈裟な演出が用意されているわけでもなく、聴き手を驚かせるようなことは一切ない。ただし、歌うこと、演奏するということにおいては恐れず、迷わず、ためらわず、山下達郎という人は、いつも自らに大きなもの、激しいもの、新しいものを課し、果敢な闘いをも辞することがない。(天辰保文)

 いちおう先に書いておきますけど、いわゆる「ネタバレ」と呼ばれるようなことは書きませんのでご安心を。とくに楽曲の名前などは控えておきますよ。


 今年も行ってきました。山下達郎のコンサート・ツアー「PERFORMANCE2013」へ。2008年の年末、旧・大阪フェスティバルホールの最期に合わせて再開された達郎さんのツアー、その「PERFORMANCE2008-2009」から「PERFORMANCE2010」「PERFORMANCE2011-2012」と、今回で4シーズン目、足掛け6年になるんですね。はやいなぁ。達郎さん含め10人のミュージシャンたちの演奏と歌は、ほんとうにものすごいクオリティーで、でも、すっごく「普段着」で(だから達郎さんのコンサートは「お祭り」的なムードがない。「音楽を聴く」とはどういうことか、身にしみて感じられる)、とっても励まされる。
 昨夜の神奈川県民ホール、とってもあたたかい雰囲気で、やりやすそうだった。今夜はライブ・レコーディングをしています、ということだった。
 今回、ぼくには、2008年末を思い出すシーンもあった。ライブ・レコーディングで聴いたことはあっても実際に生演奏では聴いたことがなかった、嬉しい選曲もあった。10年ぶり、15年ぶりに聴く曲もあった。バンド編成では、おそらく今回が初演だろうと思われる曲もあり。夢のようなカバー・ソングもあった。
 コンサートの終盤、達郎さんから「市井」ということばが出た。「小さな歌」ということばも。あんなすっごい演奏をしておいてね(笑)。でも、やっぱり「小さな歌」たちでいいんだよね。

 写真は、コンサート・ツアーのたびにつくられているパンフレット。最近、ますます充実してきていて、今回は『Melodies』と『Season's Greetings』にかんして、対談、インタビューなど合わせて(字数を数えたわけではないけど、達郎さん曰く)4万字! また内容が素晴らしい。「小さな本」というには、あまりに力作。どこまで手を抜かないんだ… と呆れつつ、たのしく読んでいます。

2013年11月1日金曜日

「平野甲賀の仕事 1964〜2013」展

 気軽にやるのが一番。出たとこ勝負でチャラッと作るのが長続きのコツ。いろんな人が参加し、作っているときは笑いが絶えなかった。(平野甲賀〜『水牛通信』について)

 今日から11月。2013年も、気づけば、あと2ヶ月ですね。『アフリカ』は、今年中にもう一冊、という予定ですが、さぁ〜て、どういうことになりますか。(もちろん『アフリカ』第21号〜2013年10月号も、11月になっても12月になっても遠慮なく発売中です! 発行月を書いてあるだけなのデス。)

※告知していた、珈琲焙煎舎での2周年記念パーティーは、諸事情につき中止となりました。楽しみにしてくださっていた皆様へは、たいへん申し訳ございません。詳細は、珈琲焙煎舎のブログほかをご覧ください。


 ところで、先日、武蔵野美術大学の美術館ではじまった(12/21まで)「平野甲賀の仕事 1964〜2013」展をみにいってきました。写真は、チラシと、図録(平野さんの描き文字をフォント化した「コウガグロテスク」のCDつき)。かなり充実した展示です。
 会場には、300冊以上のブック・デザイン(本の展示)、シルクスクリーンなどで制作されたポスター、装丁をリトグラフで「再生」した作品なんかがズラッと並んでいます。なかには、『ワンダーランド』『水牛通信』といった雑誌の展示もあって、見所はたくさん。とくに雑誌に惹かれる。ぼくはやっぱり雑誌(づくり)が好きなようです。とくに『水牛』(新聞時代を経た後の『水牛』)は、雑誌というより、冊子とか、パンフレットと呼んだほうがしっくりくる感じで、好きです。
 この人の装丁、いまでは、「描き文字」の人、というイメージで、おそらく「描き文字」で、という注文が多いのでしょう。最近20年くらいの本は、大半がその「描き文字」を大きくフィーチャーして、やたらめったら「描き文字」で埋められた表紙も少なくないようです。
 が、「描き文字」はまだ出てきていないか、出てきていても控えめに出てくる80年代くらいまでの装丁が、かっこいい。控えめな凝り方が、また…(笑)
 最近のものでも、演劇や音楽の活動と、それについてきてるような冊子づくりの仕事が、またいい感じ。どこまでいっても、ぼくはそういう、アーシーな(?)というか、地面に近いところでやっているような仕事? 活動? 営み? に心惹かれる人のようですね。


 「コウガグロテスク」だけど、さっそく、いま使っているMacBookにインストールして、つかってみた。ね? これだけで書くと、なんか、芸がない。でも、普通のフォント(普通のフォントって言い方がヘン?)をつかってるなかに、ちょっと紛れ込ませると、こういう「描き文字」は威力を発揮するような気がしています。ま、これをつかっても、「あ〜、平野甲賀の文字だよね」で終わる気もするので、そうそうつかえないような気がしますが…